matonao/ 元編集者で物書き、今は心と身体の回復中。雑記はtwitterID@matonaoにて。
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2015年10月28日(水)野良の虹 その4〜はこちゃんが亡くなりました
c0081512_14543407.jpg
あなたと過ごした日々は、たったの4年と4ヶ月でした。
わが家に来た頃の日記はこちら

9日ぶりに帰宅した夫を出迎えたのは、かつての大きな鳴き声ではなく、不安定な台所の吊り棚に座り込むはこちゃんの姿でした。
地震があるとガタガタ揺れる、ラップやタッパーなどを置いた棚の上になぜか彼女はいたがり、降ろそうと手を伸ばしてもしがみついて離れません。
これではごはんも食べられないし水も飲めない、漢方も飲ませられない、トイレにも行けない。水を差し出せば時折飲みましたが、食べ物は人間用のかつおぶしをなめるか、ウェットフードのスープをなめるくらいで、もうほとんど何も食べなくなっていました。

9月30日(水)
点滴180ml T動物病院にて 2.45kg
ごはん:かつおぶしのみ
お水:あまり飲まない
おしっこ:30+30=60ml
うんち:なし
嘔吐:1回 朝 泡と草
漢方×2
急に衰えてしまった

この頃からはこちゃんは、あちこち骨が当たるなどして丸まって眠ることが難しくなったのか、四つん這いで座り込むような体勢になりました。目を完全に閉じることはほとんどなく、どうやらまともに眠ってもいないようでした。
そして、いよいよ高いところにジャンプすることもできなくなり、それでも流し台の上にのぼろうとして、しばしばガタッと大きな物音を立てて私たちを驚かせました。

流し台に上がれなくなった彼女が次に居場所にしたのは、お風呂場です。
後で知ったのですが、病が重くなり呼吸が苦しくなると、猫は湿気を求めてお風呂場に行きたがることがあるそうです。
10月に入り、人間にとってはからりと過ごしやすい季節になりましたが、彼女にはそれがつらかったのかもしれません。

もともとはこちゃんはお風呂場が好きで、なぜかお風呂場の隅にたまった水を飲むのが大好きでした。私たちは彼女がたくさん水を飲めるように、発病後はわざと洗い場に水をバシャバシャかけ、彼女に開放していました。
しかし、風呂のふたの上でじっとうずくまる彼女は、どうやら水を飲んでいるわけでもなさそうです。

この頃、一度だけ夜、夫の膝の上に乗って丸まったとのことです。
彼女が誰かといっしょに安らいだ様子を見せたのは、おそらくこれが最後でした。

ある朝、私が居間で朝食をとりながら何気なく視線を動かしたら、カーペットの上に彼女の排泄物があるではありませんか。
しかも、ほとんど食べていないわりには、そこそこ立派なもので、堂々とそこにしたように見えました。
もう、いろんなことがわからなくなっているのだろうか。
少なからずショックを受けました。

はこちゃんは、我が家に来てから4年間、2回しか粗相をしていません。
1回目は、我が家へ来たばかりのとき。新しい環境に怯えて、ベッドの下にあるタオルを入れた箱の中に身を潜めて、トイレの場所もまだよくわからず、行くにいけないまま箱の中でおしっこをしていました。猫はおしっこを数日しなくなれば毒素がまわって死ぬと聞いていたので、彼女の最初の粗相に心底安堵しながら、タオルを洗ったのを覚えています。
2回目は、はじめてお風呂に入れたとき。シャワーの水にびっくりして、お風呂場でおしっこをしました。彼女の怯えっぷりを見て、その後4年間、はこちゃんを洗うことは二度とありませんでした。
この2回、この2回だけなのです。

そしてよく見ると、彼女は前回病院へ行った際、キャリーケースの中でも粗相をしていたようでした。ケースの中に敷いたタオルが湿って臭くなっていたのです。
その後も、尿意があると、一応はトイレに行っているようなのですが、間に合わないのか何かを間違えているのか、ことごとくトイレのまわりにおしっこをこぼしていました。

10月4日(日) 
口元がだらりと下がっている。口内環境が悪いせいか。目がつり上がって焦点が合わない。医師より、そろそろ痙攣が始まるかもしれないとのこと。痙攣の最中に死ぬことはないそうだ。2.3kg。

10月5日(月)
お風呂のふたの上に小さなうんちをする。その後トイレに入るが何も出ない。タイミングを間違えたのか。トイレに行く意思はあるよう。

この頃になると、ずっとお風呂のふたの上にうずくまっている彼女を1日数回降ろし、シリンジでミルクを与えるようになりました。
漢方のH先生は、強制給餌はしない主義だと言っていました。本人が食べないならそれが命の終わりなのだと。私もそうするつもりでいました。
でも、何も食べない、水さえ飲まない彼女をそのままにすることがどうしてもできなかった。
脱水と餓死だけは避けたい。延命しなくとも、今日その時に少しでも体が楽になってくれたら。自己満足だと知りながらも、私は彼女を抱えて、レンジで少し温めたミルクを口の横から与えました。
嫌がってそのまま粗相することもありましたが、口のまわりについたミルクをぺろぺろとなめてくれると、少しほっとしたものです。

お風呂場に座り込む彼女は、全身が痛いのか、もう体を触られるのも嫌がっているようでした。
こんな彼女をずっと見ていては身がもたない。
私は1日数回だけ彼女のお世話をすることにして、なるべく自分のペースを守ろうと日常を過ごしていました。
けれど、時々気になってお風呂場に覗きにいくと、そこには、口からよだれと血を流し、目の半分は淀んだ目やにで埋まった彼女がいるのです。
これが、私たちの可愛がっていた、あのはこちゃんなんだろうか。
目をくるくるとまんまるにして、私たちを覗き込んでいたあの子なんだろうか。
険しくゆがんだ表情は、まるでまったく知らない獣のよう。

「はこちゃんかわいいね〜。はこちゃんいいこだね〜。」
私は笑顔をつくり、わざとお気楽な声を出して、彼女のとめどなくあふれるよだれをガーゼで拭き続けました。目やには綿棒でなんとか取り除きました。
はこちゃんは〜かわいいよ〜。はこはいつでもかわいいぞ。
何があっても私はあなたを見捨てない。どんな姿になっても、あなたはかわいい。
私は彼女にそう伝える義務がありました。
これが、生き物を飼うということなのだから。彼女には、私たちしかいないのだから。
彼女を家に迎え入れた時から、最後まで何があってもこの子をかわいいと言い続けると決めていたのだから。

もしかしたら、自分自身が病気で、働かず、子も産まず、社会的には生きている意味が見出せないということが、私を突き動かしていたのかもしれません。自分の存在を肯定するために。

けれど、変わり果てた彼女の姿を見たせいか、私は久しぶりの発作を起こしかけました。
どうにも呼吸がうまくできず、そのせいでめまいがぐるぐると止まらなくなり、部屋にひとりでいる恐怖に耐えられず、思わず、漢方医を紹介してくれたIさんに電話をしました。
はこちゃんが、はこちゃんが…と、自分でも思ってもいなかった言葉と涙がどんどん溢れ出すのを止められませんでした。
彼女は段階的に悪くなっているし、少しずつ存在を消している。私は案外ショックを受けていない、そう思っていた。でも、違った。
Iさんは、私の予期不安が収まるまで、2時間近くも話し相手になってくれました。

この時、私は彼女を翌日病院に連れていくかどうかを迷っていました。
おそらく彼女は今週中に亡くなるだろう。それでも連れていくべきか。
点滴をしたら体が楽になるだろうか。
それとも、最後に病院へ連れて行かれた恐怖だけが残ってしまうのか。

翌朝、はこちゃんのよだれは少しおさまっていました。
毛づくろいができず、粗相もするため、体からも口からも悪臭がしていました。湿ったタオルで体を拭き、ミルクと漢方をなんとか与えると、私は意を決して彼女をキャリーケースに入れました。
彼女は、今までで最大の力で抵抗をしました。それでもなんとか押し込んだのです。
これが良いことだったのか悪いことだったのか、私にはわかりません。
ボロボロになった彼女を診察台に上げ、120mlだけ点滴をしました。もう彼女はまったく鳴き声を上げません。そんな力もないし、おそらく意識も朦朧としているのです。
「この状態で、よくがんばっていると思います」と、医師は言いました。
そして、口内の炎症を少しでも抑えるために、抗生物質の注射を打ってもらいました。
再度キャリーケースの中で粗相をしていたので、病院でペットシーツも替えてもらいました。
もう、体重は測りませんでした。

自転車での旅を終え、帰宅してキャリーケースを開けると、つい3日前まで即、走って逃げていたはずの彼女は、もうその場から動こうとはしません。しばらくじっと中にいてから、ようやくヨタヨタと部屋の奥へと進んでいきました。


ところが数時間後、抗生物質が効いてきたのか、彼女のよだれ、鼻水、目やになどが、ほとんど止まったのです。
私は、病院へ連れて行ってよかった! と胸をなでおろしました。
そして驚いたことに、彼女はヨタヨタと部屋の中を歩き、ベランダの手前に座ると、久しぶりに大きく口をあけて何度も鳴いて訴えたのです。「ベランダに出たい!」と。
正確には、もう声は出ていませんでした。声なき声でした。しかし、それは確かに私の知っている、よく鳴く、あのうるさいはこちゃんでした。目元も口元も、表情豊かな、あのはこちゃんに戻っていたのです。
元気なころ、彼女は何回も、洗濯物を干す私の目を盗んでベランダに脱走しました。彼女が外の世界に興味を持つことが幸せなことだとは思えなかったので、我が家では一応、ベランダに出ることは禁じており、そのたびに彼女は私に怒られていました。でも、今彼女を外に出さない理由はもはやありません。私が網戸をすっと開けると、彼女は洗濯機の後ろにまわってしばらくじっと座り込み、日向ぼっこをしていました。

夕方、肌寒くなってきたのでなんとか彼女を部屋に連れ戻すと、今度はすうっ…と、ベッドの下に入っていきました。地震の時や、私たちから逃げたい時など、彼女が隠れたい時に必ず入った場所です。
ベッドの下の彼女の姿を目で追うと、やはり大きく口を開けて「あー、あー」と、声なき声で鳴きながら、ヨタヨタと何かを探してました。何を訴えているかわからなかったのですが、彼女は最初に我が家へ来たときに入った、タオルを入れた箱(無印の段ボール製衣装ケース)の中に、自力ですっと入ったのです。ほかにも命名の由来はいくつかあるのですが、この箱こそが彼女が「はこちゃん」たる所以でした。

彼女はこの箱に入ったり出たりを数回繰り返し、ふたたびヨタヨタと部屋の中を歩くと、ドタリと音をたてて、部屋の角で倒れこみました。
すっかり軽くなった彼女の体を一旦持ち上げてみても、もう、後ろ足が床をとらえようとしません。いよいよ自力では動くことができなくなった彼女のまわりに、私と夫はタオルやブランケットで囲いを作り、中に湯たんぽを入れ、そのままこの場所で休んでもらうことにしました。その間にも一度、何度も鳴いて「トイレにいきたい」とはっきりとした意思を示し、その場で勢いよくおしっこもしました。

しかし、粗相をしようが動けなくなろうが、ふかふかのブランケットに囲まれて横たわる彼女の姿は、実にはこちゃんらしいのです。昨日までの見知らぬ獣のような姿が嘘のように、目はまんまるで、こちらを見てよく鳴き声をあげ、なでられると目を細め、喉を鳴らしさえしたのです。
彼女が喉を鳴らすのは、体調を崩して以来実に初めてのことでした。
私と夫は不思議な安堵感に包まれながら、久しぶりに彼女と同じ部屋で朝まで眠りました。

*

翌朝、はこちゃんは夜明けとともに目覚めたのか、またしてもよく鳴き、かつてのように私たちを起こしました。細いながらも声が出ることも多くなりました。
前日と同様、体を拭き、おしっこもしていたのでタオルやペットシーツを替え、なんとか漢方を1錠投与。ミルクもシリンジで少し与え、ガーゼで水を含ませもしました。
部屋のすみっこにずっといるのもなんなので、日の当たる人間のベッドのすぐとなりに移動させ、ふたたびふかふかのブランケットやタオルケットで体を囲み、湯たんぽを中に入れました。
夫が出勤前、はこちゃんに向かって「行ってきます」と告げると、彼女は力を振り絞って、しっかりと聞こえる声で鳴いて応えたそうです。

ベッドにもたれかかって、これまでも好きだった茶色いタオルケットやクッション、ブランケットに囲まれた姿は、まるで元気だった頃に日向でゴロンと横になっている姿とほとんど変わりませんでした。痩せている体を隠してしまえば、本当に変わらないのです。
「なんか、いつものはこちゃんだね」
「はこはこしいね」
そんな会話をして夫は家を出ました。

これだけ彼女がもとの表情を取り戻したのは、やはり昨日打った抗生物質のおかげだろう。抗生物質は続けて投与しないとまたすぐにもとに戻ってしまう。彼女の体がその日いちにち、少しでも楽になるのなら、投与を続けたい。そう思ってT動物病院に電話をすると、昨日投与したものと同じ抗生物質が錠剤でもあるとのこと。なんとか錠剤なら飲んでくれそうだったので、私は「午後私だけお薬を取りに伺います」と告げて電話を切りました。

強すぎるほどの暖かい日差しが入る午前でした。私は11時半から自分の病院へ行く予定があったので、それまでに洗濯とアイロンがけを済ませようと励んでいました。その間、体が痛くならないように、何度か彼女の体の向きを変えました。

もう何日も音楽を聴く気など起こらなかったのに、かつてのようにのんびり横たわっているはこちゃんの姿がうれしかったのか、私は久しぶりにPCのスピーカーをONにし、iTunesのシャッフル再生を始めました。私のiTunesは、cafe-apres midiのコンピ等から、お気楽な音楽ばかりを流してくれました。大好きなPort of Notesの「more than paradise」も流れました。そして、アイロンがけのBGMには、キリンジの「野良の虹」も選ばれました。

アイロンをかける私の背後で、はこちゃんは薄目を開けた状態で横たわり、少し早めに、規則的にお腹を上下に動かしつづけていました。

さよなら またあおうね
見果てぬ空の下で
流星のイレズミをまぶたに刻め
袂を分かつ野良の虹
桃色の手のひらを振る恋人よ
バババイ、グッ バアアーーイ

アイロンをかけながら、私は不思議な光のようなものを感じました。
見たわけではありません。光のトンネルが、ごおおおっと、すごいスピードで渦巻いて進むようなイメージがわいたのです。
私は、はこちゃんに背を向けてアイロンをかけながら、知らず知らずのうちに声に出して彼女に語りかけていました。

今日はいい日だねえ、はこちゃん。あったかいねえ。
はこちゃん、もうすぐいいところに行こうとしてるんだねえ。
よかったねえ。
知らなかったよ。全然怖くないんだねえ。幸せだねえ。
私、自分が死ぬのも少し怖くなくなったよ〜。
お父さんやお母さんが死ぬのも悲しくなくなったよ!
ほんとに怖くないんだねえ。
はこちゃんは、もといたところに帰るだけなんだねえ。
いいなあ。うれしいねえ。はこちゃん。

そして、私の心は達成感で満たされました。
まだ終わったわけではないのに。彼女はきっとこれから数日寝たきりで、介護が大変になるだろうに、もう達成感なんて、と思いながらも、なぜか、
「私、よくやった。ここまでよくがんばった。経験したことのないことを、よくここまでやり遂げた」
という気持ちが強く湧いてきたのです。

あの時の心境をこうして思いおこすことはできますが、再現することはできません。
私は確かにあの時、不思議な多幸感に包まれていました。
死は悲しいものではないことをはっきりと悟りました。
そして、これからの彼女の旅立ちを、心底うらやましいと思ったのです。
私たちは、いったい何の因果で、こんな現世で苦労ばかりしているのか。
私たちは、ほんのひと時、修行のためにここにいるだけ。
小刻みに上下する彼女のおなかは、彼女がもといた魂のふるさととでもいうべき高次元に向かって、出発の助走をしているように見えました。

アイロンをかけ終えた私は、最後にもう一度彼女の体勢を変えて出かける準備をしました。
体の向きを変えられたのが嫌だったのか、彼女はまたはっきりと鳴き声をあげました。
そして、彼女の体に思い切り太陽の光が降り注ぐように、カーテンをすべて上にあげて出かけました。
最後に頭を撫でましたが、彼女の目はぴくりとも動かず、少し遠くを見つめているようでした。


私が通院と昼食、少しの買い物を済ませて帰宅すると、彼女の体はもう、硬直していました。
家を出た時と変わらない体勢で横たわっており、まだお腹も動いているものと一瞬錯覚しましたが、体に触れた時、その生まれて初めて触る異様な硬さにおののき、彼女の死を理解しました。
家をあけていたのは3時間足らずなので、おそらく私が出かけて間もなく、正午ごろには旅立っていたのだと思います。
2015年10月7日水曜日、享年5歳2ヶ月(推定)でした。


私は霊感があるタイプではありません。幽霊も信じていません。
死は無だと思っていました。今も思っているかもしれません。
本当は霊も死後の世界も信じたいのですが、残念ながらまったくもってそれらの気配を感じる能力がないため、信じたくても信じられないのです。
ただ、9月の頭に、敬愛していたアーティストのやまぐちめぐみさんが亡くなったことをきっかけに、臨死体験について調べる機会がありました。
めぐさんが見た風景はどんなものなのだろう。これからはこちゃんはどんな風景を見るのだろう、と。

人は死ぬ時、たいてい、横たわっている自分の姿を俯瞰で見て、暗いトンネルを通りぬけ、光に包まれるそうです。
そしてたとえようのない安堵感をおぼえ、臨死体験をした人は、自分の存在を全肯定し、死を恐れなくなるのだそうです。
また、親しい人が「お迎え」にくる現象もあり、それを本人のみならず、第三者が目撃することもしばしばあるとのこと。
だとしたら私は、あの時、もうすでに魂が半分離れた彼女が臨死体験をしているのを、そばで見て、ともに体験していたということになります。

私はあの時、まだ彼女が亡くなるとは思っていませんでした。
いつ亡くなってもおかしくないとは思いつつも、もうこれが最後かな、というような予感めいたものは特にありませんでした。
その日の午後にまた彼女のお薬を取りにいく予定でしたし、自分の病院帰りに、彼女の顔を拭くためのコットンも買ってきていました。前の晩まで一応は自分の足で動き回っていたし、あと数日は寝たきりの彼女を介護するのかな、と思っていたような気がします。

でも、実のところ、どちらでもいいと思っていました。私が出かけているうちに亡くなっても、生きていても。
臨終の瞬間には立ち会えなかったわけですが、特にそれを悔やむ気持ちはありません。
出かける時、彼女は痙攣を起こして苦しむでもなく、呼吸困難になるでもなく、ただ淡々と呼吸をしていたので、出かけない理由は特にありませんでした。
そして、これまでの彼女の行動を見るに、やはり猫は、弱みを見せたくない生き物だと思ったのです。もしかしたら私が出かけたことで、彼女がようやく息を引き取れたのだと思うのは、都合がよすぎるでしょうか。

もう一つ、彼女の臨終にあたって、不思議なことがありました。
夫はその日ネットを見ていて、まったく何の脈絡もなく、はじめて「虹の橋」の詩を読んだというのです。
来るべきペットロスについて調べていたわけでもなく、本当にたまたま目にしたのだそうです。私は「虹の橋」のことを知っていましたが、夫はまったく知らなかったとのことでした。

「虹の橋」のお話も本当だったらいいなとは思うのですが、今回はこちゃんの死を経験して、私は、いわゆる、人間が想像できるような「天国」の風景は、ないのではないかなと思いました。
何かもっと、人間の想像を超えた、高次元としかいいようのないような、魂があつまる場所があるのだと、感じるに至っています。

はこちゃんが亡くなった日は、友引です。
ひとまず私は金沢の父に電話をし、連れて行かれないようにと、力を込めて伝えました。

(その後、に続く、かも)















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# by cafefullofwords | 2015-10-28 17:37 | journal
2015年10月27日(月)野良の虹 その3〜はこちゃんが亡くなりました


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あまりオモチャで遊ばなくなってからも、天然のねこじゃらしが大好きだった彼女。
もともと草が大好き。食べてしまうこともしばしば。
はこちゃんは、魔女の宅急便のジジに似ていると思います。


8月のあいだ、彼女は確かにまあまあごはんを食べていました。
しかし、せいぜい多くても1日30g程度。
健康時は80g以上食べていました。
そして、1日20gも食べようものなら、数日後には何も食べられない日が必ず何日か続きました。
一時的に尿毒素が下がって食欲が出て食べても、今度はそれが分解できずに苦しむ。
食事そのものが彼女にとっては毒のもとなのです。腎臓サポート食も幸い食べてくれましたが、それだって無害ではありません。
食べると食べないの波を繰り返し、彼女の体重は、確実に、1日25gのペースで減り続けました。
初診時は3.8kg。20日で500g減るという計算になります。
「なんとか体重が維持できればねえ…」と医師に言われましたが、何をどうやっても、体重を維持するほどには食べられないのです。
8月の下旬には、彼女の体重は3.2kgくらいになっていました。
それでも彼女は、ほぼ、元気でした。運動能力に陰りはありませんでした。
病院に連れて行くたびに、「あまり食べないけど、うーん、痩せている以外は相変わらず元気なんですよねえ」と言う日が、9月後半まで続きました。

(ちなみに、はこちゃんは手作りごはんの類は一切食べてくれませんでした。基本的に食欲がないところに食べさせるので、主に高齢猫向けのフードを、ムースタイプからカリカリまで、毎日変化をつけて与え続けました。)

また、自宅での点滴は、すぐに行き詰まりました。
当初は、本人が何がなんだかわからないうちに点滴を終えていたのですが、1週間もすると、点滴セットが用意される気配を感じればベッドの下に隠れるように。また、彼女が元気になるにつれ抵抗する力も強くなり、大の男でも押さえつけることは不可能になりました。私も、針を誤って自分の手にぶっ刺してしまうこと多数。申し訳ない気持ちを押し殺して彼女の背中に針を刺せても、すぐに針を抜いて全力で逃げてしまうのです。

点滴から逃げられるたびに、私たちは途方に暮れました。家の中に悲しい時間が流れました。
この子は死の前日であろうが全力で逃げるだろう。このままでは3人のうち誰かが怪我をする。
私たちは自宅点滴を諦めました。
医師曰く、「本気で抵抗する猫を人間が抑えることは不可能」。

病院へ連れて行けば、彼女も観念して動けなくなるのか、点滴は可能でした。
けれど、キャリーバッグの中で泣き叫び、待合室でガタガタ震える彼女を見るのは、あまりにもつらかった。
結局、予算的にも、双方の精神的にも、3日に1度の通院、1回につき多めの量の輸液をするというところが限界だろうという結論に辿りつきました。
病院へ連れて行かれそうな気配がすると、はこちゃんはベッドの下に隠れてしまうので、私はわざとテレビ等をつけっぱなしにして、なんの前触れもなく彼女をキャリーバッグに押し込みました。
そこから大慌てでリュックを背負い、家の鍵と自転車の鍵を持ってテレビと電気を消して病院へ向かうのです。

点滴が3日に1度になったせいなのか、血液検査の結果は悪化に転じました。飲水量は多かったのですが、クレアチニンの数値はふたたび10を超え、尿毒素は100を超えました。やはりこれ以上は改善の見込みがないことがわかり、8月末をもって、血液検査はもう行いませんでした。
漢方のH先生からも、「若いから良くなる可能性はゼロではなかったけれど、やはりこれが彼女の寿命だったんだね。あとは延命治療だから、どこまでやるかはお母さん(私のこと)次第ね」と言われました。ただし、漢方を飲んでいる子は痙攣を起こすことが少なく、あまり苦しまずに穏やかに亡くなると。

そんな折です。夫の、海外出張が決まったのは。
ほんとうに、なんというタイミングか。
9月20日から、8泊のドイツ出張。
私と出会って9年近い年月のなかで、これほど長い出張は初めてです。

はこちゃんの体重は、1日25g、時にそれより多く減り続けていた。
3日に1度体重を測っても、キープできたのはただ1度だけ。
どこまで体重が減り続けるんでしょうか、という質問に、漢方のH先生は、「健康だった頃の半分くらいまでかな」と。T病院の先生は「2kgくらいまでいくかもしれません。そこまで持ちこたえるかどうかはわかりませんが」。
はこちゃんが健康だった時は5kg。おそらく2〜2.5kgが限界だということになります。
計算をすると、夫が出張中に彼女の体重は、2.5〜6kgになることが予想されました。

彼女の命の限界は、9月下旬から10月の頭。

相手が人間の家族ならば、絶対に海外に行ってはいけないタイミングです。
しかし、彼女は動物です。そして、夫は転職してまだ半年。
ここまで彼女を治療できたのだって、私が病気で働けずとも暮らしていけるのだって、夫が働いているから。
彼を止めることはできませんでした。けれど心の中では何度も責めました。
もし私が彼女をひとりで看取り、送り出すことになったら、私は夫を一生恨むかもしれない、とも思いました。
それは全員にとってあまりにも不幸なことだと思われました。
もちろん夫だってこの時期に行くのは辛いのです。
この不運を私は深く深く恨みました。

すでに日は暮れやすく、夏はあまりに早く終わり、通院は夕方が主になっていました。
買い物客や帰宅する人々でにぎわう駅前を抜けて、私は自転車のカゴの上の彼女に話しかけ続けました。

今日は空気が澄んでいるね。ほら、あれが夕焼けだよ。お花が咲いているよ。車いやだね。わんこだね。にゃんこいたね。ごめんね。すぐ終わるからね。帰りは別の道を通ろうか。
みんなお前のことが大好きなんだよ。

これまで見ることのなかった外の景色をいきなり毎日のように見て、どんな気持ちなのだろう。
もうじき命を終える彼女にとって愛おしい風景なのだろうか。
目に見える世界がこれで最後になるかもしれないことを、この子はわかっているのだろうか。

9月某日
点滴:なし(2日目)2.8kg
ごはん:モンプチスープ15歳以上 少々
お水:よく飲む。
おしっこ:35+50=85ml
うんち:少々。普通便。草が目立つ。においほとんどなし。
嘔吐:なし
漢方 ×4
草ばかり食べている。天袋にのぼりたがる。

2ヶ月間、私と彼女だけの時間がたくさん流れました。
そして、もしかしたら最後も、私と彼女だけかもしれない。

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そして私には、目下、夫の出張をどう乗り越えなければいけないかという大問題が立ちはだかりました。
ひと晩もひとりでいられない私が、8日もどうしたらいいのか。
はこちゃんが健康ならば、何日かを親族や友人の力を借りて乗り切り、あとは帰省していたでしょう。
しかし、今の私には、彼女を置いて帰省するという選択肢がない。私は東京のこの部屋にいるほかない。
私の両親は、働いている姉に代わって本気の孫育てをしているため、ほとんど家をあけられない状況が何年も続いており、精神的にも肉体的にもギリギリの状態で暮らしている。

幸い、義母がもともとシルバーウイークに東京に来る予定があったため、そのほとんどを我が家に泊まってもらうことにしました(夫の両親は仕事の関係で東京と浜松を行き来しています)。
それから、少し家は遠いけど、気のおけない友人宅に2泊。彼女には生後10ヶ月の赤ちゃんがいるので、我が家に来てもらうのは難しく、私が夜だけ出向くことに。はこちゃんの状況によっては、行くことは難しいかもしれないけれど。

そして、続く緊張状態の中でどうしても1〜2日は安心して過ごせないと私も折れてしまうということで、やはり実家に頭を下げて父親に2泊だけ来てもらうことになりました。折しも父は大規模な写真展の真っ最中。搬入と搬出の間の慌ただしい上京。母から、「あんたもう、お父さんはこれ以上は無理!」と罵られるしまつ。
忙しい孫育て生活のなか、父が東京に来ることでなんとか少しでものんびりとしてもらえるよう、「nasune」なるものを購入し、2007年から使ったMacBookを買い替え(!)、どちらの部屋でもPCでテレビを見られる環境を作りました。

こうしてなんとか8日分、夜をひとりで過ごさずに済むような予約を取り付けましたが、瀕死の猫とともに過ごす8日間を迎えるにあたっては不安しかありませんでした。
折しも9月末。昨年私が、重度の不眠に陥ろうとしていた季節。
一昨年もここで体調を崩し、3年続けたアルバイトを辞めました。
私の目の前に人生最大の壁が立ちはだかっていました。

はこちゃんの体調はといえば、8月末を最後に、ふたたびドライフードは口にしなくなっていました。腎臓サポート食はドライタイプしか食べてくれなかったため、もう与えられません。
ウエットフードを少し食べるか食べないか、スープの部分だけをなめるか、といったところです。
体重は3kgを切っていました。背骨や四肢の骨が出っ張るのみならず、頭頂部まで痩せ、体からは滑らかなラインが消え、毛並みが整わなくなりました。毛並みが悪くなったのではなく、体がボコボコしているから毛もボコボコに見えるのです。

なにせ腹が減らない子に食べさせるわけですから、飽きたらまず食べません。封を切ったばかりのものに対しては、少し興味を示して舐めたりするのです。
冷蔵庫の中は、封を切ったウェットフードのパウチが常に5〜6種類ある状態になりました。
病気の動物はグルメになるようなのです。
はこちゃんは、あまり食欲がない時でも人間用のかつおぶしだけは好きで舐めてくれるので、かつおぶしで彼女の食欲をある程度推しはかっては、パウチからどれかをお皿に出して、3秒だけレンジで温めて目の前に出すということを根気よく続けました。
私の毎日は、彼女の通院、便の計測、水や食事の世話で暮れていきました。

猫ミルクもかつては大好きだったのですが、発病以降は一切飲もうとしません。
悪心があるのか、猫草はやたらとたくさん食べました。
幸い、せっかく食べたものを吐くようなことはほとんどありませんでしたが、病院から帰った後だけ、ストレスからか、何度か泡状の胃液を吐きました。

この頃から、彼女はなぜか高いところにばかり上りたがるようになりました。
冷蔵庫の上から始まり、流し台を伝って台所の出窓、台所の吊り棚の上。
あまりに天袋に上りたがるので、中に毛布を引いて水を置き、ベッドにしたこともありました。
甘えたり丸まったりといった、猫らしい仕草、これまでの彼女らしい姿はどんどん少なくなっていきました。顔からは表情が乏しくなり、鳴いて何かをうったえることもほとんどなくなりました。

こうして人間と少しずつ距離を取るさまは見事でもありました。もし、前日まで枕元で甘えて眠っていた猫が突然死んだらショックでしょう。しかし、彼女は少しずつ、私たちから離れ、もとの彼女の姿から離れていったのです。うまくできているものだと思いました。

ただ、高いところに上れるということは、やはりまだ足腰はしっかりしており、経験者からよく聞くような、寝たきりになったりトイレや水飲み場に移動できなくなるような状態には一向にならないのです。一貫して健康な頃と同じように用を足すことはできていました。
通院は嫌がるのですが、帰宅してキャリーを開けると、全速力で部屋の奥まで走って逃げる元気もありました。


そして9月20日、ついに夫を送り出す日がやってきました。
幸いあと1週間くらいではおそらく命に別状はなさそうで、どちらかといえば不安は私の状態のほうにありました。
最初の4日間は、義母が来ます。気は遣いますが、義母は猫が好きなので、はこちゃんをたいそう可愛がってくれました。義母には、基本的には江東区のマンションにいる義父といっしょに過ごしてもらい、夜だけうちに泊まりにきてもらうというふうにしました。

夫に日帰りで国内出張されることさえ恐ろしかった私ですが、「ひとりでいる」ということには意外と早く慣れました(いつも思いますが、「大丈夫」になることには理由がないというものです)。そこで、「疲れが溜まらないうちにチャレンジさせてほしい」と申し出て、義母には1日おきに来てもらうことになりました。

この5年間、私はひとりで朝まで過ごしたことが一度もありませんでした。はこちゃんと夫がふたりで夜を過ごすことは数え切れないほどありましたが、私とふたりきりで過ごしたことはこれまで一度もなかったのです。

彼女の命があるうちに、一度だけでもふたりで過ごしてみたい。残念ながら、広くなったベッドでともに眠ることは叶いませんでしたが、彼女が天袋から私を見下ろし、ふたりだけでふた晩を朝まで過ごすことができたのです。
一晩中起きている覚悟でいたのですが、いつもより多めに安定剤を飲んでいたため、夜はあっという間に眠くなって、8時間しっかり眠ってあっさりと朝を迎えていたのでした。

日程折り返しの5日目には、友人宅に泊まりに行きました。そろそろ緊張による疲れが出てきたのか、道中2度の多摩川渡りはかなりきついものがありました。それでも友人宅でそれなりに楽しく過ごし、翌日の昼にドキドキしながら帰宅すると、はこちゃんは相変わらず天袋の上で、特に変わった様子もなく、ひとまず安心しました。

ところで、猫という生き物は、ふだんと違う人がそばにいると、どうやら頑張ってしまう習性があるようです。
彼女が最後にドライフードを食べた8月末は、友人がお見舞いに来てくれた日でした。友人の前でガツガツごはんを食べるので、これでは今にも死にそうには見えないな…と笑ってしまうほどでした。しかし彼女はこの日を最後に、ドライフードを口にすることはなくなり、食べる量は激減しました。

そして、最後に彼女が自分からごはんを食べたのも、シルバーウィーク中、義母が家にいるときでした。自分から天袋を降り、キャットタワーの上のウェットフードを勢いよく食べていたのです。追加しても追加しても食べるので、義母といっしょに心配をしたほどでした。
そしてこの日を最後に、彼女はほとんど何も食べなくなりました。

何より驚いたのは、私の父が来たときです。もうすっかり人間と距離を取って久しかった彼女が、自分から父の膝の上に乗ったのです(はこちゃんは、もともと人の膝には乗りません)。
その後も、父が居間に布団を敷けばその上に丸まり、持ち上げてどかしても今度は枕元に座りこみ、何をやってもひと晩じゅう、父から離れようとしませんでした。
父の膝の上で安心したように丸まって眠る姿を撮って、ドイツにいる夫にLINEで送ると、夫もたいそう驚いていました。

なぜ彼女が私の父に、70代のじいさんにこれほどまでになついたのかは、今でも謎です。
猫は体の調子が悪くても、弱っている姿を天敵に見つからないように、ギリギリまで平静を装うといわれています。見慣れない人の前では病んだ姿ではなく、余裕を見せようとする本能からだったのでしょうか。
いずれにせよ、父の膝の上で彼女が丸まっている姿は、彼女が最後に私にくれた、限りなく優しい光景のプレゼントとなりました。
彼女は、私がこの人に愛されて育ったことを知っていたのかもしれません。

そしていよいよ、夫が帰ってくる前夜。
友人宅に泊まりに行く予定は入れていましたが、ここで不測の事態が起こりました。
PMSと疲労で体調がボロボロになり、私のほうが動けなくなってしまったのです。
とてもじゃないけれど、電車とバスを乗り継いで友人の家に行ける状態ではありません。
義母も父も、もう東京にはいません。父は写真展の搬出のために残ることはできませんでした。

私は、本当に今度こそたったひとりで夜を過ごす決意をしました。
もしこれが普通の平日だったとしても、会社にいる夫に助けを求めてしまったであろう体調の中でです。
もうほとんどごはんを食べないはこちゃん、彼女もつらい中を頑張っているから私も頑張る、その一心でした。
そして、この夜を越えたら、私は大きく前進する。私がひと晩でもひとりで過ごせたならば、私たち夫婦は大きな自由を取り戻せる。
はこちゃんはもう寝室の天袋も飽きたのか、なぜかずっと台所の出窓に座っていました。
私は1日じゅうふとんに入って、新しいMacbookでターシャ・テューダーやベニシアさんの動画を流しつづけました。
例によって安定剤の力で意外とすんなり眠ることができた私に、とうとう朝がやってきました。
その時の私はまさに、ドラえもん6巻の最後で、ボロボロになって「勝ったよ、ぼく」と言ったのび太の心境でした。

結局私は、8夜のうち3夜をひとりで過ごしたのです。
夫の日帰り出張の時さえ、ろくにひとりで過ごせなかった私が。

今にして思えば、この8日間は、彼女が私に与えてくれた卒業試験だったのかもしれません。
夏のように暑く晴れ渡った朝、私は元気に身支度をして、羽田の国際線ターミナルに向かいました。

つづく

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9月末、父とはこちゃん。父はアマチュア写真家です。
北陸新幹線での旅は速くて快適だったそうで、私も間接的にようやく開通の恩恵にあずかりました。












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# by cafefullofwords | 2015-10-27 11:53 | journal
2015年10月26日(月)野良の虹 その2〜はこちゃんが亡くなりました
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8月下旬、小康状態の彼女。ほかの猫と同様に手足を触られるのが嫌いでしたが、
この日なぜかはじめて彼女のほうからすっと手を重ねてきたので驚きました。

この日から、私たちの闘いが始まりました。
まずは1週間、毎日毎日皮下輸液なることをしに病院へ通います。透析の代わりのようなもので、皮下に点滴して水分をたっぷり摂らせ、おしっことして排出させることで、腎臓にかかる負担を減らし、毒素を外に出すことが目的です。
また、血管拡張剤なる錠剤の投与も行われました。腎臓には血圧を安定させるなど解明しきれないほどの複雑な機能があり、この薬ももともと心臓のためのものらしいですが、効果のあるなしは医師によって意見が分かれるようです。いずれにせよ、腎不全と言い切れてしまう彼女にはもう焼け石に水ではありました(我が家も途中で投与をやめました。毒素を吸着するスミは時々投与)。

まずは、極力たくさんの水分を取らせ、おしっこを出させること、このままでは急速に体重が落ちるので、今は何でもいいから食べられるものを食べさせるようにと言われました。

当初、車のない私たちにとって通院は一人では困難だと思われたため、夫が職場の上司に事情を話し(猫好きの上司でたいへん助かりました)、毎朝2人と1匹で病院へ寄ってから仕事へ行くこととなりました。

猫の腎不全については、もちろんネットでいろいろ調べました。水素水だとかサプリメントだとか、腎不全に効く、腎不全が奇跡のように改善した! などという触れ込みの商品もいくつか見かけましたが、「できることならなんでも試す」という気持ちには、私はなりませんでした。

私は、彼女がおそらく5年ほどの寿命であるということを、あっさりと受け入れていたのです。
今は、20年生きる猫も珍しくはありません。私たちだって、短くともあと10年は元気だと思っていました。けれど、「この子の寿命は5歳ですよ」と言われれば、それはそういうこともあるのだろうと。

彼女はもともと、山梨の保健所からシェルターに保護され、それから江古田の里親探し猫カフェ「えこねこ」に配属された猫です。猫エイズなどひととおりの血液検査の結果、健康だということで引き取ってきましたが、動物の世界のこと、最初の血液検査ではひっかからなくとも、ほかに先天的に悪いところがあったとしても、我々にはどうすることもできないのです。まあ人間だってそうですが。

だから私は、「まだ4歳で腎不全だなんて…なかなか諦めきれないでしょう」と周囲に言われても、そうでもないです、と、正直思っていました。
夫に「どうしてそうやって諦めるの?」と言われることもありましたが、私には意外なほど執着がありませんでした。

(あと、「大事な家族だもんね」という言葉にも素直にうなづけませんでした。私は彼女を子供の代わりだと思ったことはありません。動物は動物であり、人間とは違う種であるという神秘を尊重したいと思っています。)

彼女が腎不全になるまでには、後になって思い返せばさまざまな予兆はありました。私がこうしてブログに書くことで早期発見のお役にも立てるかもしれませんが、猫は濃いおしっこを出して腎臓をすり減らしながら生きる動物なのですから、一度腎臓の機能が失われはじめたら、あとは何をやっても延命治療にしかなりません。1年くらい前に血液検査をしていればもう少し早く発見できていたかもしれませんが、そんなことをしても、彼女の通院期間と苦痛が長引いただけでしょう。

それに私は、最初の診断の日の帰り道でさえ、心のどこかでほっとしていたのです。
私には「10年後の恐怖」が常にありました。
私たち夫婦には子供がいません。両親たちは70歳前後で、しかも遠方に住んでいます。私の両親と夫の両親、今のところ4人とも大きな病気もせず元気ですが、10年後に全員が今のままだとはとても考えられません。介護生活に入るかもしれない。

そして私はパニック障害。ひとばん家にひとりでいられない、自力での行動範囲に限りがある等、見た目は普通でも、実生活は要介護と同じようなものです。このあやうい状況を現在、私の夫がたった一人で支えているのです。
遠くに住むどちらかの両親のうち一人に何かあったら。また、夫に何かあったら。何か災害が起こったら。10年後に限らず今だって、すぐにでもすべてのバランスがドミノ倒しのように崩れてしまう。

そもそもこんな状況で猫を飼うべきではなかったのではないか。
私が健康な普通の大人ならなんとかなることが、我が家ではなんとかならない。
今だって、夫が数日出張となるだけで、私も実家送りとなり、猫はシッターさんに見てもらうしかありません。数日ならよくても、夫がもし数週間、海外出張に行くことになったら。はこちゃんは路頭に迷います。
私には命を預かる資格はなかったのかもしれない。まだ早かったのかもしれない。私にはそもそも無理だったのかもしれない。もしかしたら彼女は自ら身をひいてくれるのかもしれない、こうなるように定められていたのかもしれない、とすら思いました。

さて、最初の診断以降の彼女の様子ですが、数日はぐったりとして何も食べようとしませんでした。尿毒素が高いと悪心がするため、基本的に食欲はなくなります。水はよく飲みました。なるべくたくさん飲ませるために、時折彼女の鼻先に水が入った器を差し出しました。

季節は猛暑でしたが、エアコンの効いた人間の寝室には寄りつかず、彼女は暑い居間のキャットタワーかクッションの上でだらりと横になりつづけました。これまで、夜は常に私たち夫婦の真ん中で眠っていた彼女でしたが、何も食べなくなる2日ほど前から、一緒に眠らなくなり、「あれ、なんかさびしいねえ、エアコン嫌いなのかな」なんて話していたのです。なんでも、腎臓が悪くなると体温が下がるらしいので、私たちも必死で、居間ではエアコンをつけずにがんばりました。自らの冷えとりの経験から、絹には排毒の機能があるということで、眠っている彼女の下半身に、着古したシルクのレギンスもかぶせてみました。

そんなおり、私のパニック仲間(?)で大型犬を飼っている友人から、「腕のいいペット専門の漢方の先生がいるんだけど、もし興味があったら紹介するね」と連絡がきました。
何をやっても焼け石に水だし、お金をかけたらきりがないし…と思いながらも夫に相談してみたところ、「一度試すだけ試してみるにも早いほうがいいのでは?」ということで、急遽、港区某所のクリニックにタクシーで連れていくことになりました。

西洋医学には腎臓の薬はない、しかし、漢方には腎臓を温めて機能を高める薬があるのだそうです。漢方医のH先生は、おむすび型の小さな漢方の錠剤を、はこちゃんの口にほおりこみました。彼女はそれほど嫌がっていませんでした。「漢方を飲んでくれなくて投与を中断したという話はないんですよ。体が楽になるのが本能的にわかるんでしょうね」
H先生曰く、彼女がもともと多飲多尿ぎみだったのは、「先天的に腎臓の機能が弱いため、毒素を薄めるために本能的にたくさん飲んでいたのではないか」とのこと。
漢方は、1日3回分処方されました。「とにかくこの1週間は徹底的に点滴をして尿毒素を下げましょう。もしもクレアチニンが5くらいまでに下げ止まれば、けっこう普通に何年も生きられる可能性もあります」とのことでした

このクリニックの帰り、キャリーケースにはこちゃんを乗せてタクシーに乗っていると、はこちゃんが「車が怖い」という鳴き方とは違う、力強い鳴き声をあげ始めました。ケースの格子から手を出して何か訴えるほどです。

帰宅してキャリーケースを開けて彼女を部屋に放ったところ、驚いたことに彼女は、置きっぱなしで手をつけていなかったお皿の上のウェットフードを、突如がつがつと食べはじめました。食べ終わっても「まだほしい」と鳴き続けます。何も食べなくなってから4日はたっていたでしょうか。私は腰がくだけるほどほっとして、座り込んで泣きました。延命するつもりも、完治させるつもりもない。だけど、やっぱりはこちゃんがごはんを食べてくれたら、私はうれしいのです。
漢方の効果は、確かにありました。冷え切った彼女のお腹が、ぽかぽかとあたたかくなっていました。不気味なほどにおいの消えた彼女の体からは、再びお日さまのにおいが漂いはじめました。

翌週、近くのT動物病院で再び血液検査をしたところ、クレアチニン値は6.9、尿毒素も90くらいに下がっていました。T動物病院には漢方を投与していることはまだ話していませんでしたが、「点滴が一応の効果を見せたということでしょうね」とのこと。

いっぽう、尿検査の結果、彼女が膀胱炎を併発していることもわかりました。尿毒素が体全体にまわると免疫力が落ち、様々な病気にかかりやすくなるのだそうです。また、彼女がよだれを垂らして眠っていること、毛づくろいをしなくなったこと、どうもずいぶん前から、食べる時にくちゃくちゃと不自然に噛んでいるように見えたことから、歯肉炎を起こしていることもわかりました。
グラグラになっている歯はあっさりと抜くことができ、今度は抗生物質の投与も始まりました。

猫をよく観察することで、対処できる症状もある。私はノートに、はこちゃんの日々の記録もはじめました。ペットシーツは使用せず、おしっこはすべて採取し、量、色、においを確認しました。

8月某日
点滴120ml (病院にて 昼)
ごはん:カリカリ10g弱、腎サポ少々 シーバ4粒、
水:よく飲む。お風呂場でも飲む 点滴後は飲まない
おしっこ:40+40+30=110ml 色は薄め、でも臭い
うんち:なし
嘔吐:なし
漢方×3、スミ×1

毎日3錠の漢方に抗生物質。あの手この手でごはんを食べさせる日々。当初はひとりでの投薬が難しく夫に手伝ってもらっていましたが、いつの間にか自分の足で彼女の四肢をかかえこみ、片手で彼女の口をあけ、もう片方の手でお薬を放り込むという術を身につけました。
また、ネットで夫が見つけた技として、投薬を嫌がる時は、薬をオブラートに包み、その上にかつおぶしを唾でペタッとを貼り付けて投与するということもしばしば行われました。

日々の通院も、自転車の前かごの上にキャリーバッグごと載せて(キャリーバッグのサイズ上、カゴの中にまでは入りません)、自転車を押して歩いていくと、ひとりでも楽にできることがわかり、私ひとりでの通院が始まりました。ついには、前かごの上にキャリーバッグを載せて、自転車に乗って漕いでいくことまで楽々とできるようになりました。こうすると、ちょっと出前チックな姿になります。
猛暑の折、日陰を探しながらの朝の通院。自転車に載せるまでは鳴いて大声で嫌がった彼女も、ひとたび漕ぎ出すとおとなしくなり、これまでほとんど目にしてこなかった外の風景を、車窓から楽しんでいるようにさえ見えました。

8月の初旬、はこちゃんの膀胱炎は完治。口内環境についても、1本の抜歯のみですみ、他はきれいになりました。クレアチニンは6.9より下がることはありませんでしたが、尿毒素の値はさらに下がり、一見したところ病気には見えないほど元気を取り戻しました。「これはもしかして長期戦かな…」という不安と期待もよぎりました。最初の1週間が峠かと思っていたのに、今の彼女はどう見たって死にそうにないのです。おもちゃを出せばこれまでどおり遊ぶし、口内が楽になってからというものの、もう二度と食べないかと思われたかつてのカリカリまでも食べるようになっていたのですから。

ところで、1回の通院、点滴等にかかる費用は3000円以上。こんなことを毎日続けていては、父子家庭状態の我が家では生活が破綻してしまいます。通院10日後くらいには医師に指導を受けて、点滴の仕方を覚えはじめ、自宅での点滴生活もスタートしました。夫が全力ではこちゃんを押さえつけて、私が針を刺しシリンジを押し出す。刺されている間はふえーんふえーんと鳴き続け、精神的にも肉体的にもお互いつらいものでしたが、毎日病院へ行かなくてすむ、毎日コンスタントに点滴ができることはお互いにとって良いことでした。

その後も、はこちゃんは、「もう二度と見られないんだろうな」と覚悟していたことを、次々を覆しました。
ジャンプしてテーブルにのぼる。のぼれないように食器や果物でバリケードをつくる。洗濯カゴに入る。毛糸玉で遊ぶ。本棚の上にのぼる。天袋の中を探検する。玄関先で絶叫してお出迎えをする。おなかを出してゴロンと転がる。猫パンチ。布や紙を広げると邪魔をする。ベランダに脱走してお怒られる。私の料理中、まな板の上に手をのばし、寝室に閉じ込められる。
ついには、お気に入りのクッションで「ふみふみ」までするようになりました。「ふみふみ」は、猫が極めてリラックスした時にのみする行動です。そして、エアコンの効いた私たちの寝室で、私と夫の間で眠ったのです。

しかし、それは、お盆前のこと、たった2日間ほどの出来事でした。

つづく



 

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# by cafefullofwords | 2015-10-26 15:36 | journal
2015年10月15日(木)野良の虹 その1〜はこちゃんが亡くなりました
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2015年元旦の日の出を眺める彼女。


たいへんご無沙汰しております。
私はあまり変わりなく過ごしております。
体調は、よいほうです。地下鉄やビルの上はあいかわらず苦手ですが、自宅では落ち着いた生活をしております。夫は2月に転職をしたのですが、無事、表面上はそれほど変わらない生活を維持できています(通勤の最寄駅まで変わらないのです)。
さて、間違いなく長文になりますがお許しください。

2015年の前半は、アルバイトをしようとするもうまく決まらず、そうこうしている間に某企業のウェブサイトへの原稿執筆の仕事をすることとなり、半年間は微々たる収入ながらウォーミングアップとばかりにそれなりに楽しくライター仕事をしておりました。38歳にして生まれてはじめてのフリーランス仕事です。ささやかな仕事ではありましたが私にとっては大きな一歩でした。あまりに割りに合わないのと、例によって決められた日時にあちこち取材に出向くのは難しいので、今後ライター仕事を続けるつもりはあまりありませんが。

自分の担当コンテンツの執筆が終了し、さて、これからどうしようか、という頃、梅雨は明け季節は蒸し暑い夏にさしかかっていました。

はこちゃんがあまり、ごはんを食べない。

はこちゃんというのは、うちの飼い猫、当時4歳サビ雑種メスです。飼い主がちゃんづけで呼ぶのもどうかと思いますが、そのほうがすわりがよいので、なかやまきんに君みたいなものだとご理解ください。
そのはこちゃんが、夏毛に生え変わったであろう季節、食欲が落ちてきました。
単純に夏バテかな、と思いました。
あと、年齢もかな、と思いました。生後8ヶ月で里親探し系猫カフェにいた時代から、群を抜いて食い意地のはっていたこの子も、もう人間の年齢にしたら30代半ば。ある程度食欲が落ち着くのは当然だろうと思っていました。
また、「いつものごはん」であるドライフードは残すものの、「スペシャルごはん」であるシーバやモンプチ、かつおなどはガツガツ食べるので、カロリー的にはじゅうぶんであろうと思われました。

6月には夫の北陸出張に伴い私も帰省をし、留守中はキャットシッターさんに彼女の世話をお願いしました。シッターさんから「ちょっとシュッとしましたね、はこちゃん」と言われたのですが、夏毛になったからだろうと思っていました。
6月の下旬にはいつものT動物病院にワクチン接種に行き、触診などもし、「強いていえば最近食べる量が減りましたかねえ」と伝えましたが、「これまでの半分になったりしない限りは大丈夫でしょう」との返答がありました。

それから3週間後。季節は猛暑に向かっていました。はこちゃんは食べる量も水を飲む量も減ったのか、トイレでの排便の量がかなり減りました。
これまで3日でビッタビタになっていたトイレマットがあまり濡れていない。
もともと、彼女はけっこうな多飲多尿な子でした。一度心配して、その飲水量を計測したこともあるのですが、平均より多めながらも正常範囲内(1日200ml以下)だったので、「よく飲みよく出すことはよいことだ」と誇らしく思っていました。
ああ、はこちゃんも大人になって、しかも今暑いから省エネで暮らしてるんだな、と思っていました。
が、気がつけばカリカリをほとんど補充しなくてよくなった。
余って1日以上たって捨てることが増えてきた。
そして、とうとう、大好きだったチーズ入りのシーバさえ口にしなかったのが7月21日。
私は「ただの夏バテだろうから大げさかな」と思いつつも、朝「今日ちょっとためしに病院連れてってみるわ」と夫に告げました。
夫も朝いちばんに診察を受ければ仕事に間に合うということで、二人でキャリーケースを交代でえっちらおっちら運びながら、徒歩10分強のT動物病院へ行きました。
たった3週間前に予防接種をした病院です。
夏の朝の明るい路地を二人で歩きながら、その後の深刻な宣告など想像だにしていませんでした。

病院で「ちょっと食欲が落ちてるんで〜」と気軽に診察台に彼女をのせて、測ってみたらば体重は3.8kg。
「あれっ、痩せた!」と私は明るい顔で夫に言いました。3週間前に測った時は4.3kg。しかも、1年前は5kgオーバーのずっしり猫。ダイエットしなければと思っていたら、年齢とともに自然に痩せたではありませんか。
しかし、医師は固い表情で「食欲がなく体重が落ちている、これは明確な原因が何かあります」といって血液検査を行うことになりました。

検査結果が出るまでの20分間、あいかわらず私たちはキャリーの中の猫の相手をしながら機嫌よく待っていました。
名前が呼ばれ診察室に入ると、医師はしばらく喋りません。
あとはどんな順序で話があったのかあまり覚えていません。
検査結果の紙には赤字で書かれた項目が2つありました。

BUN(尿毒素)140>
Cre.10.4

「申し上げにくいのですが」
「衝撃的な数値でした」
「人間ならば透析をするレベルです」
「腎臓は治りません。おそらく9割方はもう機能していないでしょう」

「この年齢ではとてもめずらしいことです」
「他の項目の数値が大きく動いていないところをみると、急性ではなく慢性、少しずつこうなったと思われます」

瞬時に、私は「ここは泣くべきところのような気がする」と思って泣きましたが、心の中ではもっと呆然としていました。
ただ、彼女が余命いくばくもないことはすぐに理解しましたし、その後一度として、彼女が再び完治するような夢は私は見ませんでした。希望はあっさりと捨てることができました。
夫はどうかわかりませんが。

「これから1週間、毎日点滴に来てください。1週間後の数値をみて、今後について考えましょう。まだ若いので、できるだけのことはしてみましょう」

そして、食べ物を受け付けなくなった彼女に、ミルクの強制給餌と、血管拡張剤の錠剤の投与が行われましたが、彼女は激しく抵抗し、ピンセットでの投薬は難航しました。泡をふいて嫌がるのです。
やっとこさ投与が終わり診察室を出たところで、夫は時間切れで仕事へ向かいました。
ひとりで会計を待っていると、キャリーバックの中の彼女はミルクも薬もすべて吐いてしまいました。
キャリーバッグの中がドロドロになっていくのを、私はただアワアワして眺めることしかできず、スタッフの人があわててティッシュなどを持ってかけよりきれいにしてくれました。
となりに座っていたおじさんは、「あらー、お薬が合わなかったのかね?」とのんびりと言いました。しかも、財布にはじゅうぶんなお金がなく、「明日もいらっしゃいますよね」ということでツケにしてもらいました。

ひとりでキャリーを持って帰る自信がなかった私は、電話でタクシーを呼びましたが、焦って手配を完了する前に電話を切ってしまい、タクシーはいつまでたっても来ませんでした。完全に動揺していました。
そして、タクシーを呼ぶのを諦め、一刻も早くこの子を狭いところから出してあげようと、結局ひとりで抱えて帰宅することにしました。
痩せたとて4キロ近いのです。地獄のような暑さの中を、何度も路上にキャリーを下ろし、持ち方を変えてはまた歩き出しました。
頭の中を、ずっとKIRINJIがカバーした大貫妙子の「黒のクレール」が流れていました。
あの、おそろしく暗い音楽が、葬送行進曲のように。

思えば、最近彼女はまったりしていた。
ベッドの上に逆さまに転がって、ただただ彼女が目を閉じて静かに香箱を作る様を間近に眺めることが何度かあった。夫も何もせずに彼女をじっと見つめながら寝転がっていることがあった。
もともと彼女は常によく動く子で、この柄なうえ顔を静止させることがほとんどないため、本当に写真が撮りづらかった。
あまり香箱を作らなかった彼女が香箱でじっとしていることが最近増えていた。
もうずっと耐えていたんだ。私は全然気づかなかった。
3日前までオリジナル・ラブの渋谷公会堂を観に行ってヒャッハーしていた。
ここから私の生活はすべて変わってしまいました。
この宣告を受けた日に来ていたnitcaのTシャツには、その後袖を通していません。

つづく







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# by cafefullofwords | 2015-10-15 18:35 | journal
2015年1月4日(日) 鹿島神宮、銚子、九十九里 KUSA.
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夜の海も走って月も見た。
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KUSA.喫茶 店内は撮影禁止。心に焼き付けられる。全部それでもいいのかもしれない。


半島の海岸沿いを走り続けていると、房総は島のようだった。
車を借り、鹿島神宮に初詣をし、銚子でおいしい魚を食べ、1時間以上車を走らせて、長年行きたいと思っていたKUSA.喫茶へ。
九十九里に来るのは大学の時以来だ。たどり着いたのは午後4時半、カフェの細長い窓からのぞく庭がマジックアワーを教えてくれていた。
ちょうどいい大きさの山小屋のよう。
車を運転しない私にとっては、きっと一生自力では来れない場所。
カフェは冬がいい。ストーブのあかりと湯気を後で思い出すのがいい。写真はいらない。

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首都高に乗ると、ものすごい都会だなあと他人事のように思う。今の私は東京を外から見ている。東京タワーに2015の文字が光り輝いていた。
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# by cafefullofwords | 2015-01-04 13:01 | trip
2015年1月1日(木)
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明けましておめでとうございます。

あまり美しくない写真で恐縮です。金沢式の紅白鏡餅。これでないと、どうも落ち着きません。
白だけのお餅はストイックすぎて、あまりに神様への捧げものらしく思われて。

東京へ戻ってきて1週間あまりが経ちました。
最初の数日は、さすがに「こちらでうまくやっていけるのか」という不安から、夜もまた少しお薬のお世話になっていたのですが、今はまた大丈夫。朝までぐっすり、7時間睡眠では足りないというペースになってきました。
手抜きしつつもおせちを作り、その他おかずも作り置きし、大掃除もすませ(これは10月にやっていました)、年賀状も書き終え(これも実家でやってしまいました)、ようやく元日の今日、達成感につつまれて心置きなくダラダラしています。
本当はもっと、ハードルは低くていいはずなんですけどね。

大晦日、身体が普通に動いて年末の家事ができたことが、何よりうれしい。
ゆく年くる年を見て、夫より後に床につき、そのまま朝までぐっすりでした。
ほんの2ヵ月前には考えられないことでした。

マーマーマガジン等でよく見かける数秘術でいえば、私は12月生まれなので、10月頃から新しいサイクルに入っているのだそうです。
確かに、私の転機はいつも10月(または9月末)からでした。
再上京したのも、夫と出会ったのも、前の仕事をはじめたのも、さかのぼれば大学時代のことをたどっても、転機は9月末から10月です。
一昨年、体調を崩してバイトをやめたのも9月末。
不眠になったのも9月末。
今にして思えば、このことが大きな毒出しと、見直しのきっかけになりました。
お薬の見直し、夫婦関係の見直し、自分で自分を縛っているあれやこれやの習慣などの見直し、実家や夫の家族との関係の見直し、新しい友達との出会いや旧い友達との再会…数えあげればきりがありません。
一昨年の10月から昨年の10月までが、まるまる浄化の年にあてられたのだと思います。
その間、呼吸法や新しいヨガも始め、ウォーキングも始め、冷えとりも格段に強化し、なんだかんだいって、体調は以前よりよくなりました。
副産物としては、不眠解消の腹筋強化ヨガを毎日するうちに、プヨプヨだったおなかが、かなり平らになりました!

数秘術でいえば、これから私はしばらく「7」の段階に入るそうです。
まだ力を蓄える時期のようですね。来年、再来年にひとつの達成をみるようです。
(あと、不思議なことに、夫と私は、誕生数も、未来をあらわす数も、したがって人生のサイクルも、まったく一致していることが判明)

来年の今頃、私はどうなっているのでしょうかね。
できるだけ、家事よりも、好きな手仕事を優先させる1年にしたいです。
そのために、心をゆるめられるように。心の中を美しいもので満たして。
息を吐くたびに新しくなると信じて。
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# by cafefullofwords | 2015-01-01 17:59 | holistic
2014年12月18日(木) チョコ食べてまう
年内の生還が決まりました。
本当に、生きて帰るという感覚。
1ヶ月前の私はまだ、薬を使っても6時間眠れたらいいほうで、3時間後の中途覚醒は当たり前。毎日夕方がやってくるのが怖く、ベッドの頭の板の部分に、大きく「考えない」と書いた紙を貼っていました。

完全にではありませんが、精神疾患って、治るんですね。
そして、長く飲み続けた薬をやめることって、出来るんですね。

最低限のお薬でやっていこうとしていた私が、ポリシーなど捨て、医者の言うとおりにいっときMAXまでお薬を増やす、ということに挑戦しました。医者を信じてみる、ということも、初めての経験だったかもしれません。

あとは、おまけの数日間。クリスマスまでには帰ります。

がんばったね。
つらかったねえ。
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母の誕生日にプレゼントしたガーベラが、3週間も咲き続けています。

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# by cafefullofwords | 2014-12-18 16:38 | holistic
2014年12月6日(土) 生きています。実家にて。
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先月の今ごろは、1ヶ月後に生きている自分が想像できませんでした。
が、今生きています。東京に戻れる時期はわかりませんが。

2ヶ月間欠かさず飲んだ睡眠導入剤を手放せつつあります。どちからと言えば過眠です。
ようやく、本を読んだりテレビを見たりが普通に落ち着いてできるようになって、いかにこれまでの自分がおかしかったのかよくわかりました。

ここまでこぎ着けた理由は、ひたすら、西洋薬の適切なコントロールによるものです。漫然と飲んでいたお薬を別のものに切り替え始めてから、霧が晴れてきました。

こちらのクリニックの、ベテラン医師の手腕によるものです。

できれば、最低限のお薬を飲んで、あとは冷えを取りチャクラを整え漢方を飲みツボを押してカウンセリングをして治したかった。実際に東京では病院も含め、そのような治療方針でした。が、それでは太刀打ちができない事態というものがやはりあるのだと悟りました。
パニックの治療には漢方と頓服のみ!特に女性には! 誰にも私みたいに、薬で苦しい思いをさせたくない!と主張してきましたが、そうでないこともあるのですね。

お薬、MAXに飲みました。こんなにたくさん飲んで、私の体はどうなるの、私の体がかわいそう、何度も思いました。が、錠剤を睨みながら私は覚悟しました。今度こそ他者を信じてみよう。委ねてみよう。これはその学びのための一錠なのだ、そう思って薬を飲み込みました。
まだ睡眠を補助してくれるお薬は飲んでいますが、いま、5分で寝付く自分がいます。

西洋医学も、東洋医学も、代替医療も、全部信じればいいのです。きっと。

まだお薬は切り替えの途中です。これからいよいよ、古い薬の離脱に苦しむかもしれません。けれど、必ず通り過ぎる。私の体を信じようと思います。本来はそんなに悪くない私の体。まだまだ未知の可能性を持つ私の脳。その可塑性を。

1ヶ月を想定していた帰省は、どうやら短くとも2ヶ月となりそうです。けれど、だからどうしたというのでしょう。長い人生の中のたったの1ヶ月や半年など。

実家にいる間は、家族について見直すことばかりです。あれよあれよと夫の未来も大きく変わることになりました。すべてが繋がっているのだと思います。

※結局何をしたかというと、何年も漫然と飲んでいた抗うつ剤を別のものに変更することにより、不眠が改善し、不定愁訴も落ち着いてきたのでした。名医だと思う。

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# by cafefullofwords | 2014-12-06 19:49 | holistic
2014年11月17日(月)なんだって起こりうる
生きてます。
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実家に帰ってきてからちょうど2週間になります。
不眠はあまり変わっていません。こちらでも病院で試行錯誤しましたが、今のところ、これまでとお薬の力を借りてなんとか眠っているところです。まだ試行錯誤の予定。
ただ、「自力では眠れない」みたいな思い込みはなくなりました。悪化はしていないようすです。

この2週間、何をしていたかといえば、「毒を出していた」。
すでに強化していた冷えとりと、あるヒーリングの好転反応がおそらく重なり、
(あと、睡眠不足による不調も)
帰省の前日から、完全なる鬱になりました。
体が重くて起き上がれない。何もする気がしない。眠くて眠くて仕方ないのに眠れない。
全身に力が入らず、手足は勝手にぴくぴく動き、顔の筋肉は固まり、舌が動かない。

この症状は1週間続き、何度も死を思いました。
テレビをつけることも、雑誌をひらくことも、活字を読むこともできなかった。
調子のいい時にお風呂に入ったり、ツイッターを見るのでせいいっぱい。
あとは、「恋愛呼吸」を読んで、ひたすら、「健康になった、最高!」と呼吸をするのみ。

しかし、パイプのようになった体を嵐が通り抜けた後は、不眠だけを残して普通の状態に戻っていました。

今は小康状態です。それどころか、長年苦しんでいた頭痛がきれいに消えてしまいました。

私の体にいったい何が起こっているのか、さっぱりわかりません。

「何年も鬱で起き上がれないような最悪の事態は避けたい」と思って、実際避けられたようにも見えるのですが、人生、どうなるのかは、やはりわからないのだと思います。
そういうことも、ありうるかもしれない。
この2ヶ月で私の体に起こった変化を見ていると、先のことを考えることの意味のなさだけが確信となって染み入ります。

夫の仕事にまた変化が起こりそうですが、私はわりと落ち着いています。
何がどうなるかなんて、本当にその時までわからないのです。
はこちゃんを家に迎え入れたのだって、今思えば、療養中の私以外に夫しかいない我が家では無謀だったのかもしれません。それでもなんとかなってきました。
「体調を崩したらどうしよう」と、アルバイトなんかとてもできないと思っていた自分がちょっとはずかしいです。
困ったことが出てきたらその時解決すればいいし、いざとなれば辞めちゃえばいいんですから。
今は、夫は夫で楽しい人生を送れたらそれがいちばんいいなあ、と、思っています。

もう一つの毒出し、それは家族の問題。
遠くから見ていたら懐かしい我が家、私のことを心底思ってくれる親、でしたが、近づいてみたら、あまりにも感情的で、ひたすらしんどい。
母と姉は忙しく余裕がなく、父は高齢のため、あまり話が通じなくなってきました。
甥も姪も、問題だらけです。
特に母は、心配ばかりして溜息をつき、人のパワーを奪っていきます。
それはもう、完全に私自身の嫌なところを鏡写しにしているようにしか見えません。
そこにうつ状態の私が入ってきて、家の中はめちゃくちゃです。
私以外のところで、いくつもの衝突や感情の爆発が起こりました。

見れば見るほど思うのは、家族もきょうだいも子どもたちも、みな私の鏡だということです。
自らを省み、そして、夫の良さを発見できたことは、ありがたい経験でした。

まだ改善していないところもあります。
受け入れることになるのかもしれません。
時々つらいといって泣くかもしれません。
でも、みんな本当は何か抱えているのです。
人生はどんなことでも起こりうる。
生きていることができなくなるかもしれない。
何がよくて何が悪いことかなんて、わからない。
できるだけ明るく楽しく、自らをあたためて生きていこう、そう思っています。
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# by cafefullofwords | 2014-11-17 14:48 | holistic
2014年10月30日(木)人生最悪の時を私はいかに過ごしているか
こんにちは。

前ブログも、体調とは関係のない音楽や旅の話などもあり、それなりに楽しかったのではありますが、病気に特化したブログには不思議なことにあまり訪れる人はおらず、いつまでも増えない。やはり陰気を放っているのでしょうか。
いっぽうでこちらのブログには、1年間放置してもいつまでも訪れる人がいるようであり、ただいま、と帰ってきたのです。
ちょうど1年。10月は変化の月。

前ブログでは、9月の下旬に調子よさげなことを書いた後、突如、人生初めての継続的な不眠が始まったと書いて終わっています。で、その不眠は今日現在、続いています。
今はお薬を飲んで最低限眠っている状態です。そろそろ1ヵ月になります。

泣きながら1日置きに病院へ行き、相談し、叫び、ありとあらゆることをやってみましたが、野良猫のように熟睡できなくなった脳に変化の気配はありません。
大人になってからというものの、すべての不調を眠って越えてきた私にとって、ある意味パニックの発症時よりショックな、まるで食べ物から味がなくなるような、世界から色が消えるような、そして、生命の危機を感じるような、そんな日々が続いています。

ヨガ、気功、漢方、生体ヒーリング、フラワーレメディ、自律訓練法、セロトニントレーニング、ハーブ・アロマテラピー、各種呼吸法、ゆる体操、マインドフルネス瞑想、ホ・オポノポノこれらは以前からやっていたことではありますが、さらに強化しては、わけがわからなくなってきた私。
誰についていったらいいのかわからない。
ヨガの先生はセロトニンを信じているし、カウンセラーは気功を信じているし、以前の医者はマインドフルネスを信じているし、以前のセラピストはZEN呼吸法を信じているし、マーマーガールズは靴下を信じているし、みんなそれぞれ、これと決めたものを信じていて、ベストだとお勧めしてくる。
そこで私が強化したのは、冷えとりだった。

今さらながら、冷えとり。

漫然と4年半、足もとを冷やさないようにはしてきた。眠る時は靴下を4枚履いてきた。出かける時は2〜3枚履いてきた。でも、それだけだった。

いろんな人の意見を聞いて、どれもいいなと思い、けれどすべて納得いくかたちで実践できず、混乱した私には、冷えとりがいちばんよかったらしい。
今さらながら、マーマーマガジンや服部みれいさんの関連書籍を読みあさっています。
誰の指導にもつかない。一人で淡々とやる。誰もあてにしなくていい。
これは、本当に行き詰まった時に、実は心がいちばん楽なんだと思った。何かにすがるよりもずっと楽で自然。
冷えたら半身浴。格好もかまわず夫の靴を履くなどして、靴下を5枚にも6枚にも増やす。
あれこれ決めていない。ただ、「冷えとり健康法」を強化する、と決めてすごしている。

冷えとりは、症状をありがたいと思える。出てよかったと思えるようになる。
なんでもかんでも「めんげん」というのはどうかと思うけれど、生きる知恵としては素晴らしいと思う。ポジティブシンキングとは違い、ジャッジしないという姿勢。
そんなわけで、今は少しだけ、この不眠という突然の大きな身体の変化も受け入れられつつあります。お薬の力を借りるのも、まあ、少しは抵抗が減りました。

考えてみたら、どの療法だって、根本では共通したことを言っていて、矛盾することはほとんどないのです。
・呼吸が大切。無心に、吐く息を長く。丹田に力を入れて。吸う時は、よいイメージを入れる。
・執着しない。治りたいという気持ちも手放す。右脳を働かせるために、予定や心配、言葉を手放し、自然や宇宙にまかせる。
・あれはいい、これはだめと決めつけない。
・下半身に力を入れることで、上半身が楽になる。
・歩くことは瞑想であり呼吸法。
・呼吸に集中して、今を生きる。過去と未来を手放す。成功と失敗にも執着しない。
・周囲の人を変えたかったら、自分の心と身体からきれいにする。使う言葉もきれいにする。

こうやって書いただけでも重複しているではないですか。

来週から実家に帰ります。環境を少し変えてみます。たぶん少しはじたばたしてみます。
が、一番の目的は、家族とともに暮らすことで、社会の中の自分を取り戻すこと。
思い通りになんてならないと知ること。
子どもたちとふれあうことで、自然とつながること。そして、自分が生まれ育った家で、子どもの頃の自分と出会い、ふたたび自分の存在を肯定すること。
お父さんとお母さんが私に生きていてほしいと願っている。
それを目の当たりにしてこようと思います。

今までは、かわるがわる何かにすがっているほうが楽だった。
ほんとうに、自立する時が来たのですね。私にも。

(あ、あと、パニックのほうは、調子いいらしい。予期不安も発作もなし。広場恐怖も軽い。不眠の苦しみに比べたら、わりとどうでもよくなっている。バランス取ってるのかしらね)

メモがてら、すでによかったことも起きているので書きますね。
はからずも、家の中の古いものが外へ出て新しいものが入ってくるようになった。
便通が、よくなった。
頭や首、肩のつまりが少し改善された。
汗をかくようになった。
夫がやさしくなった。
などなど 笑

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# by cafefullofwords | 2014-10-30 15:36